―五島列島で漁師をご経験された後は、どうされたのですか?
1ヶ月半ほどして10月に入ったので、いよいよ下関のフグ加工工場で働かせてもらえるようになった。25歳の時だったね。 工場勤務もなかなか面白くて、夜中1時に起床して朝8時まで働き、少し休憩を入れて昼1時から4時まで働くような生活だった。包丁を手に、獲れたフグを右から左に下ろしていくんだ。とは言っても、フグには毒があるから常に神経を研ぎ澄ませていないといけないから、決して楽な仕事ではなかったよ。毎日10時間、フグと顔を見合わせる生活だった。 そこでも、とても大事なことを教わったんだよね。それは、フグのオスとメスを瞬時に見極める技。漁から帰ってくる船には、オスとメスが大量に入り混じっている。下ろす前には、オス・メスを選別しなければならないんだよ。オスには白子、メスには卵巣があって、白子というのは、値段がフグの3倍にもなる。1キロが1万円だとすると、白子は3万円もするほど高価なもので、触って指先にあたる感覚で白子か卵巣かを判別するわけなんだよ。それによって値段が決まるからね。 今は養殖のフグも増えたけど、天然のものは東シナ海まで行くんだよ。しかも、20日から1ヶ月かけないと、フグは獲れない。漁師は1ヶ月近くも家を空け、命懸けで魚を獲ってくる。万が一、漁船が遭難すれば一家全滅になることもある。でも、それなりに獲れた時にはフグ御殿が建ってしまうぐらいの値段にもなる。さっきも言ったけど、周囲は命懸けで仕事をしている人たちばかりだった。そうやって1年ほど勉強させてもらい、東京に戻ることにしたんだ。
―そして、ご実家でフグ専門店を始められたんですね
僕が戻った当時はまだ寿司屋だったんだ。でも、親戚の資金援助で経営が成り立っている店だったから、以前のように共同経営をしていても絶対に上手くいかないと思った。そこで、頭を下げて独立させて貰い、何が何でも自分の手で店を守り立てていこうと決意したのが『大漁』の原点。27歳になっていた。
―お店の経営は順調でしたか?
おかげさまで、商売は大繁盛(笑)。もともと地元だったこともあって、「豊が帰って来たぞ」とわざわざ店に知り合いが顔を出してくれたりもして。当時で月1000万円の売上げがあった。目まぐるしい毎日だったね。しかも、テレビ番組でも紹介される機会があって、益々忙しくなっていったんだよね。余談だけど、自分の子供が生まれた年に、1軒ずつ店を増やしていったんだ(笑)。結局、池袋のお店とかは客層が合わずに閉店し、今は向島と信濃町の2店舗だけになっちゃったけどね。
―現在従業員の方は何名いらっしゃるのですか?
料理人が8名と、30名のパートさん。料理人は勤続20年のベテランから、まだまだ修行中の若い子までいるよ。
―財界の方や著名人の接客には、かなり気を遣われるのではないですか?
お客様が有名かどうか、地位が高いか、ということは関係ないんだよね。来て下さったお客様に喜んで頂くための『目配り・気配り・思いやり』が大切。何か特別なサービスをするというのではなく、さりげない心遣いができるかどうかなんだよね。 ただ、そのためには、日々勉強する姿勢でいることが大事だと思う。僕自身も、この鍛錬のためにかなりのお金と時間をつぎ込んで、やっとここまで辿り着いたから。 たまに高級な店に足を運んで、隅々まで行き届いたサービスを受けてみるのも手だと思うよ。そうすることで、どうすればお客様に喜んで頂けるかというのを勉強できるはずだから。 例えば、飲み物ひとつを出すのでも、どのタイミングで出すか、どんな出し方か、どう振舞えばお客様に心地良く感じて頂けるか。また、料理の盛り付けひとつにしても同じだよ。ほんのちょっとしたことでも、もてなしの心や情緒を感じてもらう。お皿に添える葉っぱでも、外を散歩すればたくさん地面に落ちているでしょう。僕は外を歩くときは、いつも「この葉をどのように添えたら素敵だろうか」ってことにアンテナを張っているんだ。何もしなければ、感性は育たない。やはり、磨く努力が必要だと思うよ。 これはうちの従業員にも言っているんだけど、高級なものは、高級であるがゆえの手触りだったり、触感だったり、味がある。だけど、その高級なものを経験したことがなければ、それが高級か、そうでないかも判別がつかない。 おかげ様で、うちを贔屓にして頂いているお客様は、上質なものを良くご存知な方が多い。だからこそ、こちら側も努力しなければいけないね。
―開店して35年、料理もさることながら、大将のお人柄が『大漁』の魅力だと感じますが、日々心がけていることを教えていただけますか?
照れるね(笑)。でも、あえて言うとすれば、どんな人にでも常に正直に、心をオープンにして話をするということかな。正直な方と末永くお付き合いしていきたい、隠し事をするような人とは付き合いにくいとさえ思っているんだ。自分が知っていることをすべて正直に教えるという姿勢でいたい。「人に教えると相手に真似されてしまうから」と言って教えない人がよくいるけど、いくら教えたってできない人にはできないと思うんだよね、僕は。 知らないことを教えるということは、それが相手にとってもプラスになるはず。だから、僕は惜しみなく教えるようにしたい。それによって、お客様が『大漁』に来てよかったと思ってくれるなら、それが一番の喜びだからね。
―ところで、ご子息も料理人としての道を歩まれているということですが、将来的には大漁を継がせたいとお考えですか?
それは継いでくれたらもちろん嬉しいよね。手放しで喜んじゃうね(笑)。でも、本人はまだ継ぐ時期ではないと感じているみたいだね。 今は博多にいて、料理人として働き始めて10年になるかな。一旦東京に戻ってこの店で働くようになってしまったら、もう他で働くことは出来なくなる。だから、まだまだ他所で力をつけたい、試したいという気持ちの方が強いみたいだよ。全く知らない土地で一から修業をし、やっと若い料理人を育てるような立場になったようで、成長を実感する毎日が楽しいんだと。 僕は、その息子の意思を尊重したいと思っているんだ。料理人として技術はもちろん大事だけど、人間の機微、人を使うことが実は一番大変なんだよね。相手の気持ちを理解するためには、やはり色々経験しなければならないよね。 例えば、予約の電話も受けられるし、カウンター越しにお客さんともちょっとした会話ができる。若い人の指導にも当たれるし、従業員ともコミュニケーションがきちんと取れる。ホールが間に合わなければ、ふっと何気なくホールもできる、調理場が間に合わなければ調理もできる。さらにレジもできる。 料理人たるもの、やはり総合芸術だもの。いくら美味しいものを作ったって、作った人のバランスが欠けていたらね。様々なことを経験し、それが確実に自分のものにできるまでには最低10年はかかるんじゃないかな。 名刺交換をする際でも、社会人歴5年の人と10年の人では、渡し方の深みが違うんだよね。歴の長さから何かそこに温かさが伝わるんじゃないかなと思うんだよね。 そういう意味で、息子自身が継ぎたいと思えばそうしてほしいし、無理にとは全く思っていなんだよ。
―それでは、最後に大将の夢を教えていただけますか?
10人程度しか入れない店を2人で切り盛りすることかな。これは僕の夢と言うよりも、開店の年に結婚してから、35年間ずっと『大漁』を支えてくれた女房の夢だけどね。常連のお客様に来ていただき、器や素材にこだわった料理を振舞う。月毎やシーズン毎にテーマを決めたりしてね。例えば、カウンターを舞台に見立ててさ、12月1日から15日は大石忠臣蔵をイメージした料理を出すとかさ。いつか、そんなことができたら楽しいだろうな(笑)。
※現在大将のご子息は向島大漁店でふぐ料理人として活躍しています。(2011.11.1)






